すごい映画をみてしまった!

 近いうちにジム・ジャームッシュの「ブロークン・フラワーズ」が観たいと思っている。ジャームッシュの映画は「コーヒー・アンド・シガレッツ」くらいしか観たことがない。(音楽の使い方が非常にうまい映画だったなあ。)この機会に、ジャームッシュの映画をできるだけ観ておこうかなと思い、ビデオを何本か借りてきた。今日は「ストレンジャー・ザン・パラダイス」。NYに住む男のもとにハンガリーから親戚の娘がやってくる。男の友人も含めて何とも奇妙な生活が展開される。やがて女はクリーブランドの叔母の元に向かう。そのうち男たちも暇をもてあますようにクリーブランドに向かい、女とともにフロリダへ向かう。典型的なロードムービーのようで、何も起こらない。大体、映像の中のNY、フロリダは無味乾燥な風景が広がっているだけ。特に映画の中のフロリダなんて大磯あたりと大して変わらない感じ。ストーリーや会話も盛り上がりなく淡々と過ぎていく。徹底的なオフビート映画だった。正直いってこういう映画大好きですね。ただこの映画の衝撃っていうのは、オフビート映画がインディの一つの流れをつくっている現在ではよくわからないものになっているかも。無論、この映画がパイオニアなんだろうけれど・・・。とにかく格好いい映画だった。

 続いて、今日は、夕方から南大沢でテレンス・マリックの新作「ニューワールド」を観た。(この前、鑑賞ポイントがたまったので、今日はタダで観れた。ラッキー!)で、その「ニューワールド」は、あんまり期待していないで観はじめた。ポカホンタスが主題で、コリン・ファレルが主演。期待できる要素なんて何もない。テレンス・マリックのことだからまさかディズニーみたいに脳天気なアホ映画は作らないだろうけれど、異文明の出会いと衝突みたいなテーマはちょっと食傷気味。(この時点で頭に浮かんでいたのは、リドリー・スコットの「1492」みたいな映画。あれはあれで面白いんだけれどね。)「シン・レッド・ライン」から戦争を抜かしたソフトな焼き直しみたいな映画になるんじゃないかとぼんやりと予想していた。大体、コリン・ファレルってどうも好きになれない。共演のクリスチャン・ベールのほうが断然格好いい!
 ところがところが、もう全くこの映画は私のくだらない浅はかな予想なんて超えていた!ストーリーはやはりイギリス人のバージニア植民地への入植とポカホンタスの伝説(って実在の人だけれどね。)が主題だった。もちろん話の中にはイギリスの文化とネイティブ・アメリカンの文明の出会いがあり、現地を探検してポカホンタスの部族にとらわれたスミス大尉とポカホンタスの間には恋が芽生える。(これは史実じゃないと思う。)ところがやがてそこから異文明の恐れなどから互いに衝突に至り、争乱が起こる。スミスもポカホンタスは裏切り者となり、スミスは北米探検のためやがて入植地を去り、部族を追い出されたポカホンタスは入植地で人質として暮らし始めて、スミスが死んだと聞かされたのちにロルフと結婚する。やがてロルフとイギリスに行き、国王との謁見を果たすが、ポカホンタスはイギリスで亡くなる。(ここら辺は史実通りか。)
 ストーリーは割りと史実に基づいていて、観ようによっては歴史劇、でも「シン・レッドライン」が単なるガダルカナル戦の歴史にとどまらなかったのと一緒。この映画では執拗に太古から変わらないアメリカの自然を描いている。そこがまさに「ニューワールド」(太古からの世界がニューワールドっていうのも変か?でもこの逆説的な言い方がまさにはまっている。)。そういう自然の中では原住民の営みも入植者たちの生活も卑小なものでしかない。では卑小かといって人間ドラマが軽視されているのかというとそうでもない。そういう世界の中で人間は必死に生きている。自然と無関係に、そして自然に守られているとも知らずに、人間には人間の生活が展開されていく。その中の人間は時に崇高にそしてかなり愚かしいけれど、一生懸命に生きている。そこらへんの描き方がテレンス・マリックはすごくうまい。大自然礼賛に走ることなく、人間=愚民に走ることもなく、無垢な原住民文明=善VS人工的なヨーロッパ文明=悪と単純化することもない。ただ観ている側にとってこの「ニューワールド」が失われていき、人間たちが自然とそこにたどりつく「言語」を忘れてしまったことを知っているだけに重い。
 後半にロルフがポカホンタスに連れていくあたりから、人間ドラマとしても自然の描き方もさらに深みが出てくる。イギリスの石の街、そして整然と手入れされた庭園などは、まさに「ニューワールド」の行方を暗く象徴している。そこでポカホンタスはスミスに再会するけれど、この部分が圧巻である。ポカホンタスがもはや「ニューワールド」の言語を忘れてしまっている。スミスにとっても「ニューワールド」はもはや夢・記憶でしかない。彼らは彼らの手に入れた言語でやっていくしかない。だからといって不幸って訳でもなく、やはり自分なりに幸せに生きていこうとする。
 なんてえらそうに書いてきたけれど、この映画の本当にすごいところは、上記に書いてきたようなストーリーが「映像だけで語られている。」ってことだ。登場人物の誰かに視点が偏ることなく、強いていうなら自然のあるがままの視点で全てのドラマが語られている。それなのに全くテーマやストーリーがぶれることなく、でも無限に解釈の余地を残すストーリーが語られていく。なんであんなことが可能なんだろう?今でも全くわからない。
 映画なんだから映像で語るなんて当たり前なのかもしれない。でも私が今まで観てきた限りでは、案外、映画って映像だけでストーリーを語ることはしないものだ。他のメディアの文法を借りてきたりしている。もちろん映像だってそんなことわかりきっているから映像言語の確立に努めているらしいけれど、案外そういう映画に限って映像がストーリーを語らない。っていうのは、まあ全て素人考えです。でもはじめて映像だけでストーリーが語られている映画観て、正直、ショックが大きかった。なんかすごいものを観てしまった!もう二度と以前の生活には戻れないとまで思った。時々、こういうとんでもない作品に出会えるので映画が大好きです。世間ではどこまで評価されるのかなあ。

 蛇足:「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の冒頭の方、ハンガリーからNYに女の子がやってきたシーンで「ザ・ニュー・ワールド」っていう意味深長なテロップが出てくる。奇しくも今日は夕方からテレンス・マリックの「ニューワールド」を観にいくつもりだったので不思議な気がした。